曲目

俊寛(しゅんかん)

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Shunkan

ストーリー

平家全盛の平安末期。都では平清盛の娘徳子の安産を祈って恩赦が行われることになりました。(中入)一方平家転覆の謀反により、絶海の孤島鬼界が島に流された俊寛(シテ)、康頼、成経(ツレ)の三人は肩寄せあって暮していました。

成経と康頼は日頃より信仰心あつく、島内を熊野三社に見立て祈りを捧げていました。ある日、参詣の二人を出迎えた俊寛は、谷川の水を菊の酒と名付けて振舞い、都を懐かしみます。そこへ都からの赦免使(ワキ)が到着し、恩赦の書状を渡します。

康頼が読み上げると成経、康頼とあるだけで、俊寛の名はありません。信じられない思いの俊寛は、せめて九州まで連れて行って欲しいと取り乱しますが、それも許されず俊寛は絶海の孤島に一人取り残されます。

解 説

<俊寛について>

俊寛は後白河法王の側近で法勝寺執行の地位にあった権力者でしたが、藤原成親、西光らの平氏打倒の陰謀に加わり、密告により藤原成経、平康頼と共に鬼界ヶ島へ流されました。

「源平盛衰記」によると、成親は松の前・鶴の前という二人を使って俊寛を鹿ケ谷の陰謀に加担させたという事になっています。松の前は美人だが愛情の足りない女で、鶴の前は不美人だが愛情に溢れた女であったそうで、俊寛はすっかり鶴の前に心を奪われ子供までつくり、謀反に加担したそうです。

鬼界ヶ島に流された後の俊寛ら三人は望郷の日々を過ごしますが、成経と康頼は千本の卒塔婆を作り海に流すことを発心します。しかし俊寛はこれにも加わらず島民との接触もなかったそうです。

やがて一本の卒塔婆が厳島に流れ着き、これに心を打たれた平清盛は、娘の徳子の安産祈願の恩赦を行うことになります。 翌年に船が鬼界ヶ島にやって来ますが成経と康頼のみが赦され、俊寛は謀議の張本者という理由から赦されず島に一人取り残されます。
 
その翌年、俊寛の侍童だった有王が鬼界ヶ島を訪れ変わり果てた姿の俊寛と再会します。有王から娘の手紙を受け取った俊寛は身内がことごとく殺されたのを聞き、死を決意し食を断ち二十三日目に三十七歳で生涯を閉じます。後に有王は鬼界ヶ島より俊寛の灰骨を持ち帰り高野山で弔ったそうです。

<能・歌舞伎・文楽との関連>

この能はあたかも流人三人のみの絶海の孤島を作り出し、実際は流されて三年にも満たない短い期間なのに暗く長い年月を感じさせているところが脚本として素晴らしく、そこにただ一人残される俊寛の悲運をクローズアップしているところが眼目です。俊寛の抱える心の闇、孤独や絶望感などをどう表現し伝えるか至難の曲です。 
                             
それに比べ文楽や歌舞伎「平家女護島」では能「俊寛」を題材にされて作られたものですがかなりの脚色が加えられております。まず成経が海女千鳥と結婚したり(驚!)、島民との生活が描かれております。また登場人物も多く、悪役妹尾が凄い特異なキャラクターで物語を進めていきます。

俊寛の名前がない理由に、清盛の俊寛に対する怨みで恩赦を受けられなかったと憎々しげに伝えますが、そこへ上使の基康が船から降りてきて何と俊寛にも赦免状が降りたことを伝えます(驚!驚!)。重盛が別個に俊寛にも赦免状を書いたのだそうです(驚!)。

ではみんなで都へ帰れると、千鳥も乗船しようとしますがまたもや妹尾が憎々しげに重盛の赦免状には「三人を船に乗せる」と書いてある以上、四人目に当たる千鳥は乗せることはできないというのです(驚!)。再び嘆きあう三人と千鳥に妹尾が追い撃ちをかけ、流されている間に俊寛の妻 東屋が殺され、しかもその東屋を斬り捨てたのは妹尾であるというのです(驚!驚!)。

都で妻と再び暮らす夢も打ち砕かれた俊寛は、絶望に打ちひしがれ自分は島に残るかわりに千鳥を船に乗せてやるよう訴えますが、これを妹尾は拒絶し俊寛を罵倒します。思い詰めた俊寛はなんと妹尾を斬り殺すのです(驚!驚!驚!)。

妹尾を殺した罪により自分は流罪を続けるので千鳥を船に乗せるよう基康に頼み、俊寛のみを残して船が出発する。というもので脚色も二転三転するサスペンスドラマみたいです。

これはこれもありで見ている側は面白いですが、人間模様の描写に終始し、私個人的な感想は本当に伝えたいであろう俊寛の心の闇には届いていないような気がします。

<鬼界ヶ島公演>
私は昨年2009年5月にその「鬼界ヶ島」に演能で行きました。
鹿児島県の南方に位置する硫黄島。活火山が今も煙を上げ、硫黄が流れ出て海岸が黄色くなるのでかつては「黄海島」「貴海島」「鬼界ヶ島」など呼ばれていた島です。

俊寛にまつわる数々の伝承が残るこの島で、平成8年5月には中村勘九郎さん(現勘三郎)により歌舞伎「俊寛」が上演されたこともありました。そして昨年5月、薪能「俊寛」を硫黄島で上演されました。
 
しかもただの薪能ではなく島で「俊寛の送り火」と言い伝えられるお盆の行事「柱松」の巨大な松明を用い、壮大なスケールで演じられました。

見渡す限り島一つ見えない大海原。今なお噴煙を吐き続ける硫黄岳。俊寛の孤独が胸に迫ってくるような絶好のロケーションで行う薪能「俊寛」は、他の場所では決して体験できない特別な催しとなりました。
 
その特別な催しに私は康頼役で出演し貴重な体験をさせていただき、人里離れた俊寛の庵や康頼、成経が熊野三山に見立てた山々を実際に見てきました。また俊寛の庵の下に流れる小川には俊寛が書いたとされる写経された小石がいくつも見つかりました。

娘からの手紙を見て改心したのか、最後は本当の仏心を起こし魂は救済されたと思っております。そんなことを思いつつ、今回(2010年12月)「俊寛」をさせていただくのは一層感慨深いものがございます。

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