松風(まつかぜ)
Matsukaze
ストーリー
諸国一見の旅僧(ワキ)が兵庫県の須磨浦に着くと、謂われのありげな松を見つけ浦人(アイ)に聞くと松風、村雨二人の旧跡であると教えられた。日も暮れてきたのでそこにある塩屋で宿を借りようと思い供養しながら待っていると、やがて主であろう海女乙女達(シテ、ツレ)が汐を汲み帰ってくる。
宿を頼むと一度は断られるが塩屋に招かれ、蘆火を囲みながら昔を思い出し僧が在原行平が詠んだ和歌「わくらわに問ふ人あらば須磨の浦に藻塩たれつつ侘ぶと答えよ」や松風、村雨のことを言うと二人は涙を流し始めた。不審に思い聞けば二人はその松風、村雨の亡霊であったのだ。
二人は行平がこの地に流されていた三年間は寵愛を受けていたが、行平が都に帰っていった後も一時も忘れられず、形見に残した烏帽子狩衣を見る度に思いは募るばかりであると切実に訴える。(物着)やがて松風はその形見の装束を身につけ三途の川を渡った今でさえ思いは鎮まらず形見の装束を掛けてあった松さえ行平に見えて村雨の制止も聞かず狂乱する。
「立ち別れ稲葉の山の峯に生ふるまつ(松、待つ)とし聞かば今帰りこん」とまで言っていたのに・・。そしてその松に寄り添い行平と昔を懐かしみ、僧に回向を頼むとやがて夜も明けて行き姿も見えず、残っているのは松風の吹く音のみであった。
解 説
この能は一場面ものですが、汐を汲み塩屋に帰るまでの美しい女が秋のしっとりと物寂しくも神秘的でもある月下のもとに繰りなす情景的な場面、物着までのロマンティックで情熱的に恋慕う行平への思い、物着後の形見の装束を身につけた狂乱と三場面に分かれるのですが一曲としてとても長丁場で、所作も謡の技術もテンコ盛りです。
聞くところによると元々あった亀阿彌作のロンギまでが「汐汲み」という一曲で、その曲を観阿彌が改作し「松風村雨」に、更に世阿彌が現在の「松風」に仕上げたらしいです。ですからお囃子方も一場面物にも拘わらずロンギ後に一度床几を降りられます。(普通一場面物は降りませんので名残かも知れません。単に長いだけかも知れませんが・・)
またこの曲は「熊野、松風米の飯」などと言われる名曲でもあります。何回見ても何時聞いても飽きの来ない新鮮な曲であると言うような意味でしょうが、しかし実際は悲しい話ですが「上手いいい謡、能」でないと見れた物ではないというのが本当でしょう。
それだけに皆さんが良く知っている曲だけに、曲の組み立て、謡の難しさは突出していると思います。逆に何度やっても巧くいかない(美味く炊けない)のかも知れません。